中山観音縁起

 中山観音詳しくは真言宗明王山廣福寺と称す
この寺の開基は役の行者(えんのぎょうじゃ)と伝えられる。
 役の行者、俗姓、賀茂役公氏(かもえきみうじ)と云い舒明六年(634)大和の国葛城郡に生まれる。十六歳にして生駒山に籠り名を役小角と改め後に葛城山に入りて岩窟に隠棲すること三十余年、奇異の霊術を体得し、諸国遍歴の旅に出て鎮西彦山に没す。
 今から約1300年前諸国遍歴の役の行者は中山の里に紫雲棚引くを見て、この地は仏の住する地なり里人に仏の教えを広めんとして延命地蔵菩薩像を彫刻し小さな庵を建ててこれを祀り里人に仏の教えを説きかたわら十王倶生神 五道の冥官 三途の河の老婆 我造罪刹鬼悪是等を彫刻し地蔵菩薩像と共に安置した(695頃)
その後四十五代聖武天皇(724 即位)はこの地蔵尊の霊験殊勝なるを知りて勅願寺とされて天平13年(741)堂宇を建立し当時聖武帝の教僧行基(ぎょうき)に落慶法要の導師を命ぜられた。勅命をうけた行基は堂の建立されるまでの間、草庵に籠り一刀三禮の刀法をもって四体の像 四天王を彫刻し地蔵尊の脇仏として奉納し、聖武天皇勅願道場地蔵院の号を勅許され落慶法要は無魔安穏の内に行われた。

 一刀三禮 一度鑿を下す毎に三度礼拝すると云う仏像彫刻では最も厳粛な儀式を言う。

 四天王  持國天、増長天、広目天、多聞天の四体にて仏閣の四方を守護し四方天下を巡り視察し国王臣民の心念、行為の善悪を伺察すると云う。従って多くは軍陣の祈願を行い、また増益延命除病等を祈願する。

 行基(670〜749)法相宗の僧 天平六年聖武天皇に菩薩戒を伝授。

中山観音の起源はこうして地蔵院に端を発し 後に観音像を祀る廣福寺(中山観音)へと変遷するのであるが、廣福寺縁起原文に依ると、当寺本尊正観世音菩薩者天竺の仏士毘首羯摩梵子(びしゅかつまぼんし)の御作にして、人王三十四代推古帝十九年百済國王の御子琳聖太子来朝の砌、持渡らせ給う尊像なり。然るに琳聖太子周防の国多々良の濱に着し、防州小作肢の大内村に住居あり。琳聖多々良の浜に着岸せるによって 姓を多々良と名乗りその子孫大内氏と号す (−−中略−−) 輪聖太子三世の孫あり多々良長門守藤根(天慶年代)と云う。幼少の頃より仁徳勝れ、仏神三宝を尊敬し、先祖琳聖太子百済国より恩持来せし観音像を、全国無双の勝境に安置せんと常に思いけるなり。然れども格別の勝地無く、空しく過ぎしを、或朝、藤根四方の雲気を望ませ給うに当山の方にあたりて五色の光、雲に棚引くを見て奇端に思わせ、又翌朝見給うに前の朝の如くあり。かくの如くなる事三度、これ誠の勝地あるかと思わせ亀孚盲亀(きふもうき)の浮来に思達の悦び、急ぎ観音像を当院に御持参し給う。藤根多々良の浜より船にて奥の旦長徳の里に上陸せしもその先道判らず、思案に暮れ木陰にて休む時、不思議や空中に妙えなる音曲響き渡り、東方より雲上に四天王現れ来臨し給まいて、観世音菩薩を納し箱の蓋に指を掛け各々に守護し導き給う。藤根奇気の思いをなして付き添い来り、就而(なかんずく)地蔵院の堂の前に観世音菩薩を居置き四天王消え給う。藤根、この地は聖武の帝勅願の地蔵尊の霊地なるが如何なものかと案じ居りしとき、地蔵堂に内より老僧一人い出て曰く『我此の堂に住する事年久し、汝持来の観世音待つ事これまた久し。ついに我が願も空しからずして今此処に大菩薩に逢う事を得たり。汝にこの地を進ずベし。観世音を祀りて子々孫々に至り尊信すべし』と告げて 地蔵堂に入給う。藤根、堂に入りて見渡せど地蔵菩薩立勢給外には人一人とてなし。誠にこれ地蔵尊の出現やと深く信じ、肝に銘じ、感涙殆骨髄に徹して観世音菩薩を安置し、我子孫ある限り観世音を篤く尊信すと誓給うなり。
その後藤根は観音を祀るに、聖武の帝勅願寺では恐れ多いと観音を祀る堂宇の建立に取り掛かり、その工事期間中は、東方に仮の堂を建て観音像を安置した。この工事は三カ年を要したと伝えられる。工事完成後この地に三念寺と云う脇寺を建てた今もこの地を三念寺と云う。
 行基御作の四天王の加護格別の霊威を示すが故に山号を明王山と号し、地蔵院は帝の勅許の院号にして秘して常には唱えざるものとし、観音の慈悲深く霊徳の広大なるをもって又福寿海無量なるが故に廣福寺と号し萬人の信仰道場とした(推定900年代)。その後大内家数代に亘り七堂伽藍 五社の鎮守 八葉の蓮華を表して脇寺八カ寺を建立、山林境内八町四方その他 寺領等の御寄進ありて大内家代々尊信の観音であったと伝えられる。
 脇寺八カ寺 三念寺(さんねんじ)・東周庵(とうしゅうあん)・胡周庵(うしゅうあん)・離宮庵(りきゅうあん)・宝珠庵(ほうじゅあん)・宝積庵(ほうしゃくあん)・持杞庵(じきあん)・教覚庵(きょうかくあん)(中山の七観音三念寺を除く)
 長徳 昔大内家の祖先が観音をまつるべき地を求めて紫雲たなびく中山へ來られた時、奥の旦の木陰で観音がチョチョとお腰掛になった事からチョチョトクと呼でいた。後に地名を長徳と改めた。
 延喜元年(901)菅原道真公は太宰府左遷の折、防府にて当院の霊徳を聴き、現世安穏渡海安全の為にと梵鐘を奉納、はるか洋上より船の舵を返して本殿二向かいて遥拝し
    『ありがたき ちかいひろきを さいわいに
           うきよのうみを やすくわたらん』
と朗詠された。(舵返し=梶返  地名の由縁)
時移りて康和三年(1101)寺院はことごとく焼失した。慶内地に在る石碑に依ると、
『康和蓋凶乱之時兵火悪賊之所致堂閣傾廃紀傳盡凶無年暦之可推唯口碑之所存如斯』
とある。寺の縁起には『本尊脇士共に灰之中より立たせ給う誠に信ずべからざる事なり』とあり、この火災に於いて大内家建立の大伽藍は焼失したけれども、仏像は大半無事であったとのことであろう。その後十四位源義家公の御願によって、七堂伽藍が建立されたが大内家建立の約十分の一のものであった。
 厚東家第七世武光の代に霜降の城を築き(1179)この観音を厚く尊信し子孫相続して信仰し灯籠等を奉納し武運長久を祈願した。
 厚東十四代武実の時安国寺、浄名寺を建立、元弘逆乱の時(1331〜1333)武実は官軍に与力して大功を得た。十七代義武の時大内弘世に攻められ落城(1358)
   『朝日さす 夕日かがやく 木のもとに 
            黄金千ばい 朱は萬ばい』
この歌について廣福寺縁起原文を引いてみると、足利尊氏公鎮西御發向の砌、斯に霊場あるを上聞されて当山に御参籠ありて、讚えて曰く、此所大地清浄にして南は平山蒼々として田畑是を雍しは朱雀の備えに等し、北に高山寥々として自後なしたるは誠に玄武の備えに均し、東北に涌泉流れを率い池水に満ち、清輝水に写りて月二つありとうたがいしは、青龍の備えにちかし、西は洋々として渓谷海に流れて萬国に便する。厚東の河口には諸国の商船、日々に前後を争い入帆出船海口に群。壽其北岸一行数百里往還にして、東は京師に続き、西は鎮西、西海の諸公禁庭参勤の街道たり。是又白虎の備えにほかならず、寔に山川畠路四周の備、自然に具足し四神相応の勝地にして無双の名境なり。殊に大内、厚東の両豪観音を尊信するによって、寺領繁栄にして甚々各簾なり。則ち東に在る大内を朝日本群云、武威輝かなり。厚東は西に在るを以て、夕日にたとえ、当山の地形を賛美し玉いて尊氏公一首の御歌に
   『朝日さす 夕日かがやく 木のもとに
            黄金千ばい 朱は萬ばい』
と詠し尊氏将軍も、怖畏軍陣中衆怨敵退散の祈願、将軍宿願御成就の上霊宝其の外供灯料御自筆等御寄進あり。京都等持院殿御上洛の時も厚東武実を伴い奉仕せり。尊氏侯は厚東の行く末を案じて『誠に武実は名将とてありしが、その子武村は悪逆に勝れ、寺社に放火し僧侶を追放、罪無き人を害し誠に不届きな将なり。』
かくして武村の代になって宇部郷土伝説にある『毘琶詩城山くずれ』の物語がおこる。この毘琶詩は十二段に亘る長い物語である。ここではその物語については省略する。

明王山 廣福寺
(中山観音)

宗派:真言宗御室派

開山:西暦697年(役の行者)

本尊:聖観世音菩薩(印度毘首褐摩作)